圓通寺縁起



当山は、今より約700年前宥弘法印が、観世音菩薩の夢告げにより、
青の山の東麓観音山に七間四面の本堂並びに伽藍を建立し、
聖如意輪観世音菩薩を本尊としてまつられ、青松山観音院圓通寺と称しました。

「全讃史」には、「昔は巨刹なりし」とありますが、
やがて戦国の兵火に焼亡し、延宝3年(1675年)中興良意(りょうい)法印 によって、
細川頼之公の居城跡と目される現在地に再興され今日に至っています。
昔の本堂跡は、「観音堂」の地名として今に残り、当山の飛び地境内となっています。
ここには「三ツ岩」と呼ばれる大きな岩があり、細川頼貞(義阿ぎあ)の墓と言われています。
義阿は、頼之公の父頼春の叔父にあたり、足利尊氏に仕え功績の高い武将でありました。

観音霊場(第三十番)の石標が立つ当寺参道口から
「青松山」の篇額が掲げられた山門までは、
右手に枝ぶりの良い黒松の並木が赤土の参道に珊瑚のような影を落としています。
山門は、江戸中葉の造修になる和様四脚門、四本の控柱に付された転びは、
礎石上で緩やかに反り返り、威風の山門に優雅さを添えています。


山門をくぐると、境内正面左に本堂、右側に太子堂が並び、
さらに書院、庫裡が連なり、茶室五席を擁しています。
宝篋院塔(ほうきょういんとう)と本堂の間には、洒落た枯山水の庭があります。
オオスギゴケの苔山に石を三、六、九個配して「弥勒の庭」と名づけています。
また、本堂左前にある五輪塔(町指定文化財)は、 南北朝時代のもので
細川家の供養塔であり、境内中央には頼之公お手植えの松と言い伝えられていた
黒松(県指定天然記念物)が前庭を覆い尽くし、
日本一の黒松として優勢を誇っていました。

しかし、平成13年夏頃から松くい虫の被害を受け、
翌年の4月関係者に惜しまれながら伐採され、今は幹や枝で衝立やテーブルや標本として
保存されています。
なお、当寺が所蔵する「不動明王二童子像」(絹本墨画・南北朝時代)三幅は、
夢想国師の法弟にして頼之公と親交のあった竜淋周沢(りゅうりんしゅうたく)の筆です。
                                 ー宇多津町サイトよりー

細川頼之由来

ここは頼之公が阿波の秋月とともに四国の分国支配の拠点となった
讃岐の守護所(館跡)だと伝承されている所です。
今川了俊の書きしるした「厳島詣記」によりますと慶応元年(1389)に
室町三代将軍義満公が安芸の厳島に詣でた途中この宇多津に立ち寄った際に、
親しく頼之公と歓談した所で詣記には義満公がこの宇多津に着いた時の状況を
「船着き場から少し上がった所にいまし所(将軍の御座所)を設けた・・・」
とありますので、地形上、この辺り一帯(隣接する多門寺域を含めた一帯)が
館の跡だったと想像されます。

頼之公が讃岐の分国に進出してきたのは、細川繁氏が亡くなった頃の
延文年間(北朝暦1356〜1360頃)で、その後貞治元年(北朝暦)には
南朝方の斗将・細川清氏を倒し(白峰合戦)、その後(1367)には三代将軍義満公の
管領となりますが、その間の約十年間と、のち菅領を辞して(康暦元〜1379)
再び宇多津の館に蟄居してから義満公に赦免された慶応元(1389)までの十年間、
合計二十年間にわたってこの地に館を構えた所です。
管領時代の十二年間を含めると約三十年間にわたってこの地を拠点として
分国支配を行ったことになります。

この寺の庭には頼之公の御手植の松と伝えられた(樹齢七百年を超す)があり、
県の天然記念樹(日本一の黒松)として指定されていましたが五年程前に枯死しました。
この寺の山側に観音山と云う小高い岡にこの寺が在寺した旧蹟があり、
そこには大石を三つに組んだ「三ツ岩」と云うのがあります、
この「三ツ岩」は、元弘の乱の時に相模の川村山で自刃した
大叔父(祖父公頼公の弟)、頼貞公(義阿)の墓だと云われています。

この観音山から北方約三〇〇米に長興寺(廃寺跡)があり、
そこが安国寺の旧蹟です。安国寺は建武三年に夢窓国師の勤めによって
国家安穏の祈祷所として日本六十余州に寺と利生塔を建てたもので、
讃岐は既設の長興寺が頼貞のある顕氏によって建てられ(貞和1347)
ここで父の菩提が弔われたと伝えられています。(利生塔は善通寺の五重塔が充てられた)

                                   ー監修 磯野實ー



2007.6.7