2007.6.7

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夫仏法非遥
心中即近
直如非外
棄身何求
迷悟在我則発心即到
明暗非他則信修忽証
哀哉哀哉長眠子
苦哉痛哉狂酔人
痛狂笑不酔
酷睡嘲覚者
・・・

お墓の話です。

「墓」は幾百年かけて今のような様式になり墓相学・吉相墓等々の教義も出現しました。
ところが最近のお墓事情は多種多様になってきまして先人が培ってきた「墓相学」等では対応できなくなってきたのも事実であります。
多種多様の中身は少子化・家族の分離・未婚などの関係性の変化や遺骨の新たな扱い方や葬祭霊園関係事業の台頭です。分骨・散骨・手元供養・自然葬・果ては遺骨を加工してメモリアルストーン・・・、もう珍しくありません、これらが合い混じわり以前にはない事例や滅多になかった事が大変増えてきました。これはお墓だけではなく、「先祖供養」全般の現実でもあります。
お墓の相談が増える中、三つの事を大事にして施主と共に考えます。

一、決して急がないこと。とかく色んな事を伝え聞き平静を失っている場合が多いのです、墓工事は何度もできません。一度散骨したら元には戻りません。

二、そもそも「何の為の墓か」です、お墓は建てることに意味があるのでなく、お参りすることに意味があります、この考えは意外と抜け落ちます。

三、時代と共に変わってきた「先祖供養」の様式ではありますが、根っ子はなんら変わっていません。必ず誰しも先祖はたどれます判明は不可能かもしれませんが貴方も私も先祖の一人一人全ての存在があったからの「命」です、この真実は人として生きて行く規範を気づかせます、命を授かり在世の喜び感謝です、これを認め気付けば道徳につながるのです。
此の世は楽しい事だけではありません、漠然とある此の世ですから私たちは無明の淵に迷う時もあります、無明となればお墓参りを勧めます、香花供物を手向け参ってください、ただ参るだけでも善いです。 無明晴れれば報告もします。

「自分・私」の外にある自分以外の「命」の無尽の縁がからみあっての今世は流れて生かされています。服一枚、茶碗一杯のご飯、どれなに一つとっても自分一人ではできません。内にある「命」は無尽の先祖があったから「自分・私」の今世があるのです。この明白な真実を敬い尊ぶ姿が「先祖供養」であり日本の美徳を作り上げた行為となり、これら示唆賜る所を集約しているのが墓所ではないのでしょうか。

「墓」にはこんな要素があるのです、だから個人的見解見識の中で行う行為は慎重にしなければと思います、子々孫々の為にそして子々孫々の礎となっていく役目もあるのです、「自分・私」は通過点の一つでしかありません。小さくても良いんです大小豪華より手間暇おしまない世話ができる「墓」を考えていきたいものです。
まだまだ伝えたいことはありますが最後に、冒頭に記した漢文は宗祖弘法大師の著書、般若心経秘鍵の一部です、皆さんよく知っている般若心経の解説書です。この漢文の意味を記して了とします。合掌

・・・「仏の法」は遠くにあるのでなく心の中にあるのです。「仏の法」は私たちの中にもあります。迷いとか悟りとかは「自分・私」の内部に存在するのです。だから「仏の法」を求めようとすれば「仏の法」に到達できるのです。・・・・・ああ、哀れなことよ。真実の世界を知らず見ようともせず眠りこけてる者よ。ああ、苦しいことよ。痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれている者よ。とかく、酔いに狂った人は、酔っていない人を笑い。いぎたなく眠る人は、さわやかにめざめる人を嘲るものだ。・・・